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【世界一周旅行記・西安編3】古都、西安を満喫デー|兵馬俑〜梦回大秦 穿越体验馆〜華清宮〜南城壁

兵馬俑の「兵」は兵隊、「馬」は戦闘用の馬、「俑」は死者と一緒に入れる像(ここでいう兵隊を形どった陶器たち)、という意味が合わさって「兵馬俑」と名付けられた。

ここ兵馬俑には現在、8千体もの俑が発見されている。

俑は陶器で作られており、高度な温度で粘土を焼くため、硬くて丈夫。石を削って作るより高い技術が求められる。もちろん一体ずつ手作業で作っていたため、どれだけの時間やお金、労働力が必要だったかを思うと気が遠くなる。

兵馬俑から発掘された俑たちが持っていた武器も全て本物。実際に戦いの場で使われていた剣を、兵馬俑の兵隊に持たせて一緒に埋めていた。本物のため、値段も相当かかったようだ。

剣を作る技術も極めて高い。メッキの技術が使われているが、メッキ自体、発明され世に普及したのは最近の欧米である。この紀元前にメッキ技術が存在したという事実がここで判明した。なぜこの時代にこの技術が使われていたのか、これも兵馬俑の謎の一つである。

さらに、この剣はずっと錆びていないままここ兵馬俑に眠っていたそう。発見され、発掘が進むにつれて外気に触れることによって錆びていってしまった。紀元前から発掘された1974年まで、長持ちするメッキ技術はどんなものなのだろうか。かなりの高等技術だ。

剣の長さも、当時作られていた実用的な剣は11センチメートルほど。しかし、ここから出土した武器は15センチメートルにも及ぶ。当時、長い剣を作るのには高等な技術を必要とした。ここ、兵馬俑には当時の最高技術が詰まっている。

武器の一つ一つに作った日付と職人さんの名前が書かれているため、それを解読するとその当時の様子がわかってくるらしい。

兵馬俑の俑たちは、一体一体、顔やポーズ、身長や服装も違う。等身大で、髪の毛一本一本に至るまで細かく本物の人間を再現している。発見当初は色もついていたから、本当の人間の軍隊のようだったそうだ。しかし残念ながら、発掘されたことにより俑は外気に触れ、一気に傷んでしまったため色鮮やかだったものが消えてしまい、今の色合いに変色してしまった。当時の様子を完璧に再現するには、修復作業に相当の時間を要することは明らかだ。

こういうこともあり、遺跡を発掘することは現代の人間のエゴなのかもしれない、とも思ってしまった。もちろん、遺跡を訪れたり、古代に作られたものが解明されていくのもワクワクするし、研究することによって現代社会にも様々な場面で活かすことができる可能性を秘めているが、やはり発掘をするということは同時に破壊することにもなりかねない。複雑な心境だ。

ここに来るまで、遺跡発掘は終わっているものだと思っていたが、全くそんなことはなく今現在もまだ発掘中。まだたくさんの調査が行われている。

しかも、これは兵馬俑のほんの一部で、他にも同じような遺跡があと3つあるとされている。1つ目は、ここ1号坑。主に戦う兵隊と、戦闘用の馬が置かれている。この1号坑から歩いて数分のところに作られている2号坑には、戦車や騎兵部隊が置かれている。3号坑には、警備の兵隊や馬の他に、祭祀(まつりごと)などに使われた動物の骨などが発掘された。最後の4号坑は、中は空っぽ。何も発掘されなかった。おそらく、この4号坑が出来上がるまでに、始皇帝が亡くなったため墓づくりは中止されたという説が今一番有力らしい。

存命中、大きな力をふるった秦の始皇帝。兵隊には、戦って勝った者にはどんどん報酬や位を与えていき、兵隊はどんどん血気盛んになっていった。このように戦いによって力を広げていった。一方、庶民には莫大な税金と労働を強いた。始皇帝が亡くなった後、庶民からかなりの反発を買ってしまい、彼らによって始皇帝の墓でもある兵馬俑の一部が破壊されたのだ。

実際に来てみないと分からないことだらけだった。

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Airi Tabei

田部井 愛理(たべい あいり) 1994年生まれ。 世界一周、ロードトリップ(アメリカ西海岸往復、アメリカ横断、アメリカ国立公園巡り)達成。 日本の大学を休学し、シアトルへ留学。 アメリカ生活が楽しくなり、日本の大学を中退してシアトルのHighline College (短大)でHospitality and Tourism Managementを専攻。卒業後はUniversity of Washington Tacoma(ワシントン大学)に編入しArts, Media and Cultureを専攻、卒業。 ニューヨークで、週間情報紙「ニューヨークBiz!」で1年間OPTとして働いた後、日本に帰国。